2015年03月29日

4月・5月 フリースクール東京シューレ 小学生向け 親子体験デイ

 フリースクールは、あなたのペースで、「すごすこと」「学習」「いろいろな経験」「友だちづくり」ができる場所です。

 2月・3月に行った、初等部限定の「体験デイ」を、好評につき4月と5月にも開催します。

 親子で東京シューレをぜひ見にきてください。


■案内PDF■

日時●4/20(月)13:30〜15:30
   5/18(月)13:30〜15:30

場所●東京シューレ王子(JR王子駅より 徒歩4分)

参加費●無料

対象●小学1年〜6年

※事前の参加お申し込みをお願いします。
1)「申込用紙」をダウンロードして記入・FAX送信する

2)メールにて以下の要領でお送りください。
宛先 info◎shure.or.jp   [◎を半角のアットマークに代えてお送りください]
件名 親子体験デイ申込
本文に、
参加申込の日にち(4/20か5/18)  
お子さんの氏名・ふりがな、性別、生年月日、年齢
現在のお子さんの在籍学校、学年
ご一緒にお越しになる保護者の方の氏名・続柄
連絡先ご住所、郵便番号、電話番号、FAX番号
ご質問やスタッフへ事前に伝えたいこと



☆シューレでは、こんなことができます☆
ゲーム、絵を描く、パソコン、マンガ、おしゃべり、
スポーツ、音楽、工作、学習、トランプ、実験、お出かけ
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流山シューレ 説明会を6月5日金曜日に開催します

東京シューレ流山に入学・見学を考えている保護者の方へ向けての説明会です。
まずは、下記のお問い合わせ先にご連絡・お申し込みください。ご案内・書類等をお送りします。

■PDFファイル■流山説明会チラシ2015-6.pdf


2015年6月5日(金)

お問い合わせ
 電話・FAX 04-7199-7141
 メール nagareyama◎shure.or.jp
       (◎を半角のアットマークに代えてお送りください)


東京シューレ流山
住所 千葉県流山市西初石3丁目103−5
グローリアビル初石U 401
ホームページ http://www.shure.or.jp/nagareyama/
・毎週月〜金曜日10:00〜17:30開室
・初石駅(東武野田線)から徒歩 1 分




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2015年03月15日

東京シューレの歴史 〜25周年記念誌より

★25周年記念誌より、東京シューレの歴史についてまとめた文章を、紹介します。

 記念誌の該当部分のPDF(年表つき)をこちらにアップロードしますので、あわせてご活用下さい。


東京シューレの歩み 25年

特定非営利活動法人東京シューレ理事長
学校法人東京シューレ学園理事長    奥地圭子

◎東京シューレの始まり

 学校外の子どもの居場所・フリースクールである東京シューレがオープンして25年の月日が流れました。開設は1985年6月24日、北区東十条の小さな雑居ビルの一室。スタッフといえば私一人。たくさんのボランティアがかかわって下さり、小4〜中3の、主として登校拒否の子どもが学び、交流し、活動する場としての日々が始まりました。
 今は、フリースクール、フリースペースの存在は知られるところとなりましたが、当時は、放課後なら学習塾へ通うなどありますが、学校のある時間に、子どもが別のところに行くなど、考えられないことでした。また、どういうことになっていくのかもよくわかりませんでした。しかし、私自身、自分の子の登校拒否から自分の持っていた学歴社会の価値観や普通主義の見直しを迫られ、学校中心のものの見方から、子ども中心の見方へ変わり、そこから教育というものを見直すようになっていました。学校教育がいかに子どもに抑圧的であり、非人間的であるか、親・世間の尺度がいかに親子の信頼関係を邪魔しているか、子どもが学校と距離をとることは自然であるにもかかわらず、学校にも家庭にも居場所がなく、どれほど苦しいか、ということが見えてきました。

 1984年1月、つまり、東京シューレがスタートする1年半前に、私は、渡辺位さんが在勤されていた国府台病院の中にあった「希望会」の仲間や、夜間中学、わかる子をふやす会の塾の人たちによびかけ「登校拒否を考える会」を始めました。その会は、当時、登校拒否は軟弱な性格や精神状態の子がなるものだから、戸塚ヨットスクールのような矯正施設で鍛えなおすか、心の病だから精神科に入院させないと治らないとして薬づけになるなどの治療で対応されていたことに棹さす流れであり、まず親が変わり、子どもが安心して暮らせる居場所に家庭がなることをめざしました。また子どもの苦しい状況を変えるには、学校のあり方や文部省の文教政策、社会の価値観を変えていく必要も感じていました。この会の活動から、子どもが育つのは学校だけではないこと、元気になった子ども達が、友達が欲しいといい、家は退屈といい、学べることろを求める声をいくつも聞いて、東京シューレ開設につながったのです。私自身は、当時、小学校教員をやって22年経っていましたが、教師としても学校にたくさん矛盾を感じ、もっと競争や管理によらないのびのびと生命が育つ場がほしいという思いと、親として「考える会」をやってきて登校拒否の子ども達の居場所がほしいという思いと2つの思いが一致して、教員を退職、会の皆さんの協力で、一歩をふみ出したのでした。
 スタート時、10年くらいあれば、登校拒否への偏見もとれ、諸外国にあるような、学校と対等なフリースクールをやっているかな、と想像したのですが、まだまだそうはなっていません。何事も想像のようにはならないものです。しかし、現実は予想以上に豊かだったといえましょう。また、当初想像したよりも、東京シューレははるかに大きく活動が拡がっています。
 以下5期に分けて、東京シューレの歩みを述べてみましょう。およそ5年ずつくらいで変化しているのがわかります。

第1期 ● 1980年代後半(東十条時代)

 1985年3月から1991年3月まで、6年間借りた東十条の丸重ビルの時代が、東京シューレの土台をつくったといっていいでしょう。85年3月〜6月は、「これでOK」という意味と私の名のイニシャルをとって「OKハウス」と名づけたら、何と住宅会社と間違えて何人もの人が訪ねてきて、そこに昼間から子どもがいたので、驚かれました。
 6月24日に東京シューレの説明会とオープニングパーティをやった時は20人くらいの子が見にきてくれ、狭い室内はいっぱい、という感じがすでにありました。オープン後1年もたたないうちに中野富士見中のいじめ自殺があり、当時いじめから緊急避難するように来ていた子が多かったので、「鹿川君も登校拒否していたらよかった」「東京シューレを知っていたら自殺しないで済んだかも」と子どもたちは言っていました。86年には、また不動塾事件ももち上がりました。登校拒否の子が矯正施設である農家で、ちゃんと学校へ行けないのに退塾したと責められ、262回も塾長・塾生から金属バット等で殴られ死亡しました。その時も、子ども達は「僕だったかも知れない」「お母さんが東京シューレを見つけてくれて良かった」と言いました。
 通ってくる子ども達は、一人じゃないと分かったり、学校へ行けないダメっ子ということじゃない、自分らしくやっていっていいと感じたりして、自分を取り戻したり、元気で日々を送っていきました。ミーティングで何でも決めていくのですが議論白熱の日も多かったです。東京シューレ通信ははじめ私の手書きでしたが、1年後からは子ども達で発行しました。2年目から西野博之さん、3年目から上間(木村)砂織さん、佐藤由美子さんというふうにスタッフも増やすことができ、またアパートも87年に1軒、89年に1軒というふうに子どもの人数の増加につれて借り足しました。
 東十条時代、登校拒否への偏見に対し、子ども達はたたかいました。そういう意識だったかどうか別にして本質的にたたかっていたと思います。1988年5月、「ぶっとばせ! 体罰・校則・退学処分―子どもたちの人間宣言」シンポジウムへの取り組み、朝日新聞トップ記事の「20代30代まで尾を引く登校拒否症、早期完治しないと無気力症に」という稲村博氏の治療論に、市民達で緊急集会を開いた時に多くの子が反論、11月に文部省から発表された登校拒否は「怠け」であるという調査に対して、「子どもがやったらちがうのではないか」と「登校拒否の子どもによる登校拒否アンケート」を実施しました。そして1989年「ぼくらは苦しんだ経験が多く、怠けとはいえない」という子どもの結論は、マスコミにも取り上げられ、手づくり冊子は2000冊も売れ、その後の文部省調査は「中学生は学校の原因が第1位」となるなど変化するのですが、子ども達の活動が影響を与えたと思います。
 市民側の動きは活発で、90年1月、各地に増えた親の会・居場所をむすぶ「登校拒否を考える各地の会ネットワーク」(現在のNPO法人登校拒否・不登校を考える全国ネットワーク)を発足させ、その後ずっと東京シューレが事務局を担当しています。
 そんな動きの中で、文部省は、90年11月「登校拒否はどの子にも起こりうる」との認識転換を示す「学校不適応対策調査研究協力者会議」の中間まとめを発表したのでした。
 北海道緑町で無料で公民館を借り受け、夏合宿を3年間やったり、山口県精神保健センターのつながりで五右衛門風呂のある川上村で合宿したり、90年12月には、五周年祭を大きく挙行、はじめて子どもの手による登校拒否の本(『学校に行かない僕から学校に行かない君へ』)を刊行、これらの全てが、子ども達中心の活動であり、それを親のみなさんが、あたたかく見守っていました。父母会の参加率も高く、子ども達も親達も一体感がありました。
 20周年の時に実施したOB・OGアンケート『今、ここに生きている』をみても、苦しい状況の中、当時東京シューレが大きく意味をもっていたことがよくわかる結果となりました。

第2期●●1990年代前半

 場所が狭くてしょうがなく、また入会を待つ人々のリストが100名を超え、移転を決意した90年、子どもも「場所さがし委員会」などを作り場所を探し、大人も色々当たり、いったん吉川町の物件を契約、しかし、今の王子シューレが見つかり、吉川を解約、王子に移転してきたのが91年3月。大きくなった東京シューレをきちんとやっていくため、父母とスタッフから選出したメンバーで運営委員会を発足させました。
 この時期も、子ども達は、楽しむ活動と共に、疑問に思ったことに取り組み、変えようという活動をパワフルに行いました。91年7月には、広島で風の子学園事件が起き、戸塚ヨットスクール裁判の軽すぎる判決が出て、奄美大島では、登校拒否追放運動が起きていましたが、それらの動きに、追悼集会やメッセージの発信、調査団の派遣を行いました。91年7月には、前年の神戸校門圧死事件追悼と抗議のため、王子ビルの屋上から大きな垂れ幕を下ろしたり、チェルノブイリ被爆救援活動の一環でロシアの子どもと交流するために6人の子どもが市民団と共にロシアを訪問しました。
 92年、先述の協力者会議の答申(本報告)が出され、フリースクールもガイドライン付きで、お金は出ないが存在を認められることになりました。
 これに勢いを得、大きな成果を残した運動は「通学定期券の実現」でしょう。子ども達から始まった交通費の調査、大人も立ち上がっての署名運動、議員を訪ねたり、文教委員会に出たり、子どもも大人もがんばりましたねえ。運動が実を結び、ついに93年4月より、全国でOKとなり、どこのフリースクールも在籍学校の校長裁量ですが、小中学生は安く通えるようになりました。
 この時期は、シューレが拡大した時期でした。94年には、大田シューレが、95年には新宿シューレが誕生し、3つのスペースでフリースクール活動を行うようになりました。
 また、先述した文部省の答申から、92年9月、フリースクールへの出席を学校の出席と認める通達を出したため、出席日数稼ぎのために東京シューレへイヤイヤ来る子達が増え、どこかへ通わせないと承知しない日本の意識を変えるために、「家でだって育つよ」という在り方の普及につとめようとホームシューレを出発させました。93年から試行的に行い、94年にはマリオンで、入りきらないほどの人を集め「ホームエデュケーションの国際シンポジウム」を行い、本格的に活動を展開していきした。
 海外交流の取り組みも活発となり、93年シアトル1ヶ月、94年日米フリースクール交流1ヶ月、95年ユーラシア大陸横断活動1ヶ月、と自分達で企画・準備、視野を広げ、実行力を高めました。10周年祭が大きく行われましたが、その時『僕らしく君らしく自分色』と『学校の外・海の外』の2冊を、子ども中心に準備し、発行しました。
 世の中では、文部省の答申後、しだいに登校強制が姿を変え、ソフト化していきました。

第3期●●●1990年代後半

 この時期は、活動分野が拡がる時期ととらえることができます。夢のようなことも実現しています。
 内部でとても大きかったのは、長野県麻績村に、ログハウスを建設したことです。中学生の男の子が言い出して4年半、実行委員会が始動して2年半、ついに完成した感激は忘れられません。雨の中や寒い日の作業など含めつらい日も多かった中、中心になった子ども達の力はすごいものがありますが、大人のサポーターの協力も感謝しています。竣工式は96年10月でした。
 また、新宿シューレの民族講座から始まって、ついに沖縄旅行に発展、97年7月、40名余りが2週間にわたって、現地で不登校シンポを開きつつ、最南端の与那国島まで行った中で得た体験は大きいものでした。97年11月には、不登校フェスティバル「学校だけじゃないんだよ」を開催、1000名の参加者があった会場に、この年の秋、青森県弘前まで出かけて現地の人に教えてもらいながら作ったねぷたが運び込まれる、というダイナミックな催しとなりました。
 この期に、子ども達は、仲間を募って再び国会や厚生省に自ら出向き、考えを伝え、状況を変えるために動きました。というのは児童福祉法の改正案の中に、教護院を「児童自立支援センター」とし、不登校児童生徒を入所対象にしようという方策があり、子ども達は「なぜ不登校だと入所なのか」と「子どもの声をぶつける会」を発足させ、さまざまに取り組みました。結果として超党派で「不登校という理由では入所対象にしない」という付帯決議が付き、成果を得たのでした。
 また、98年には、東京シューレが大きく協力して、全国不登校新聞社が設立されました。
 東京シューレにとってこの期の終わりに、大きな変化が2つありました。
 一つは、99年に東京シューレがNPO法人の認証を都から得たことで、今では法人として活動し、11年目に入ります。もう一つは、同じ99年に、シューレ大学が出帆したことです。オルタナティヴな大学で探求や表現を目的に、何年いてもよく、学生の手で運営する大学が生まれるとは初期には考えられなかったことであり、09年度には10周年記念イベントを開催、その後も面白い展開をしています。
 もう一つ、大きくこの期に進んだのが、世界のフリースクールとの交流です。97年イギリス・サンズでのIDECにスタッフ1人、98年にウクライナでのIDECに子ども3人とスタッフ、99年に、イギリス・サマーヒルIDECにあわせて15人参加、そこで、日本で開催したいと子ども達が立候補し、ついに2000年、世界フリースクール大会を開催することになったのです。19ヶ国1300人もの参加がありましたが、NPO法人になっていたため助成金を貰いやすくなったのも、大会を成功させたと思われます。
 この期は、適応指導教室やスクールカウンセラー設置など登校刺激はソフトであったとはいえ、学校復帰のために行政関係に多くのお金と人が投入され、不登校対象の高校も生まれ、少子化を背景に民間でも塾産業のフリースクール参入やサポート校設置など進み、東京シューレの入会者の数は伸びなくなりますが、質の拡充があり、21世紀を迎える土台になったと思います。

第4期●●●●2000年〜2005年

 2000年IDECを受けて、国内にもフリースクールネットワークがほしいという機運が盛り上がり、IDECを中心的に担ったシューレの若者が奔走し、01年2月に「フリースクール全国ネットワーク」が誕生、NPO法人として活躍するようになりました。以後、スポーツ大会やカルチャーフェスティバル、夏の全国子ども交流合宿などをすすめていきますが、ほとんどの年、これらの活動も東京シューレの子ども達とスタッフがかかわり共に創っていきました。
 また、IDECを日本で開催したことと、シューレ大学でオルタナティヴな教育研究活動が位置づいたこともあり、国際的な交流や調査がとても進みました。特に日韓交流は毎年とても盛んに行っており、子ども・シューレ大学生・スタッフとも密度の濃い交流をしています。02年にはニュージーランド、03年にはアメリカ、04年にはインドで開かれたIDECに多くの参加者がありました。また、ペルーの働く子ども達の全国組織「ナソップ」との交流も、子どもの権利、子ども中心の活動の育成ということで大きく学べた一つでした。
 これまでの東京シューレの活動が評価され、03年に、吉川英治文化賞と朝日のびのび教育賞を受賞しました。子ども達が作ってきた活動が、社会的に認められたと思ってありがたく、子ども達と授賞式にのぞみました。いまあるカプラや照明器具は、その賞金で買ったものです。
 しかし、いいことばかりではありません。世の中の憲法や教育基本法改正の動きに表れているように、バックラッシュの動きは強く、不登校の世界でも、文科省が第2回の協力者会議を開き、03年4月、不登校の子どもに働きかけを強めるようにという答申が出されました。その前後から登校圧力が強まり、不登校減少政策の中で苦しい思いで登校する子が増えました。「不登校容認の風潮が増加の原因だ」などといい、子どもの休む権利、自分らしく在る権利は奪われ続けました。
 この協力者会議については、市民連絡会議を発足させ、東京シューレを会場に緊急集会を開いたり、文科省と話し合いをもったり、アピールを出したりしているうちに、予定になかったようですが、協力者会議のヒアリングを15分間受けることになりました。「子どもの最善の利益」という言葉が入ったり、取り組んでよかった面も少しはありましたが、学校外の場を認め、社会的に保証しようという方向が少しは出るかとの期待は裏切られました。しかし行政とNPOとの連携が謳われていたこともあり、思いがけなく2005年5月、文科省は、これまでとちがってNPOの教育団体と現場の声を聞くため、懇談会をひらきました。遠方のNPO団体には交通費を出し、20団体ずつ計3回にわたり計60団体の声を聞いたのです。当日の当時の文科政務官は、「皆さんの活動の意義を感じ、感謝している。今や学校教育だけで子どもの成長を担いきれると考えていない」と語りました。
 また学校復帰にこだわならい不登校支援の委託研究事業を東京シューレも受けることになり、750万円の公的資金が決定されました。そして、中教審の義務教育部会から「子どもをフリースクールに通わせる親を、就学義務を履行しているとみなすことも検討を始める」という提言が出されました。こうしたことはこれまでで初めてでした。文科省の固い殻が、今までとは少し違ってきたという感触を得たのも事実です。
 6月には、東京シューレは新橋「ヤクルトホール」で盛大な20周年祭を行いました。プログラムの最終は、1年に1人、つまり20人のOB・OGに登場してもらい、1人たった2分でしたが、当時の印象ひとことと今、どう生きているということを話してもらいましたが、それが圧巻でした。中には、タクシーで仕事現場から駆けつけ、自分の発言にかろうじて間に合わせてくれた人もいましたが、「みないろいろな生き方で生きているなあ」と言うことに感謝を受けた、元気が出た、と多くの参加者から伺いました。
 20周年記念として『子どもとつくる 東京シューレ20周年の物語』『学校に行かなかった私たちのハローワーク』を、シューレ育ちの若者と支援者で立ち上げた「東京シューレ出版」で初刊行しました。

第5期●●●●2006年〜

(1)
 21世紀に入って、2000年代の後半は社会情勢の悪化と、それに抗して、不登校の子どもたちの権利の拡充を少しずつ闘いとり、多様な育ちの在り方を社会に実際的に広げようという取り組みをしてきた、といえます。
 社会情勢の悪化とは、世界的グローバリズムを背景にする小泉内閣の政策の中で、競争原理が激化し、社会構造の問題にも関わらず、自己責任が強調され、「勝ち組」「負け組」という意識が強まり、非正規雇用が増えるという状態が生み出されました。それに輪をかけるように07年8月、アメリカから端を発した世界的不況は、日本も直撃、派遣切り、就職内定取り消し、リストラなど続く中、08年には世を象徴するかのように秋葉原無差別殺人事件が起き、格差社会の到来と言われ、年越し派遣村なども開設されるという時代になり、とりわけ若者にとって生きづらい社会となっています。
 教育の世界でも、06年改正教育基本法が成立、基本的人権の尊重よりも国家・社会のための人材育成の方向に舵が切られ、授業増などゆとり教育の後退、全国一斉学力テストの実施とそのための成績競争、教員10年研修による管理強化など、教育現場はストレスを増加させ、いじめも増加しました。
 そして、03年の学校復帰を強める政策が影響し、休めない、休んではいけない状況が生まれました。そんな06年の秋から冬にかけて、北海道でのいじめ自殺隠しの発覚、福岡県でのいじめ自殺など、いじめといじめ自殺にまつわる報道が一気に増えました。
 一連のいじめ自殺に文科省にも予告があったり、大臣のあまり有効でないコメントが出されたのは、記憶に新しいことですが、東京シューレの子どもたちはめざましい働きをしました。合計すれば14〜15人になる子たちが新聞やテレビの、面倒な、時には傷つく取材に応じ、あるいはシンポジウムに出演し、当事者ならではの発信をたくさんしました。受け止められ方が充分でない、と自分たちの生の体験と思いを載せた、「いじめ」という本も出版しました。彼らは、休んでいい、休む権利もあることを訴え、いじめに取り組んでいるつもりの教師や親が、実は、子ども自身の気持ちを置き去りにしてしまっていることに気付いていないこと、フリースクールや家でも育つことができるよ、と訴えました。
 このいじめ自殺は少し大人の頭を冷やす役割を果たしたのか、「学校よりいのちが大事」「休んでもいい」という親を増やし、数年の間、微減傾向にあった不登校は再び増加に転じたのでした。
 このような状況下で、フリースクールを一時的に求める人が増えるものの、構造的な不況の中では、親もフリースクールに払うお金がきつい上、20世紀とは違って、不登校の子どもの受け皿といわれる適応指導教室、教育センター、チャレンジ高校、3部制定時制、通信制のサポート校(5日制、2日制など)、広域通信制のサテライト校、宿泊型民間施設などたくさん存在する時代になり、東京シューレも、子ども・若者の数が減ってくるという状況にぶつかりました。入会を待ってもらったり、どんどん入ってきてくれる子がいる時代とは違う中で、どう維持存続させていこうかという問題にぶつかり、この頃の理事会は、場所とスタッフ数をどう考えるかをめぐっての再編問題について議論を繰り返しました。特にシューレ大学は移転、新宿は場所の縮小案でしたが、大田シューレは閉室という苦痛の選択をせざるを得ず、子どもには申し訳ないことになりました。

(2)
 しかし、子どもの権利拡充に発展性のある取り組みも進んでいました。
 フリースクールに出会えてよかった、と感じる子どもが確実に存在する日本社会であれば、そして、実績も積んできた現在、支援の埒外に置かれ、卒業資格も出せず、公的支援もない等の不利益や格差がいつまでも続いていいわけはないのです。
 私たちは、IDEC、諸外国のオルタナティヴ教育を知り、交流する中で、日本でも正規の教育機関としてフリースクールが存在して欲しいと考えてきました。そして通学定期や公的支援を求める援助の中で、小泉政権の措置改革特区の「教育特区」を活用すれば「市民がつくる学校ができるかもしれない、東京シューレのような子どもが中心の教育がそこで展開できるかもしれない」と感じました。「校地・校舎の自己所有の緩和」と「小中の学習指導要領の緩和」の条件があり、さらに私たちの提案により「NPO法人立学校の可」「高校の学習指導要領の緩和」もOKとなったからです。
 03年1月の保護者会でフリースクールの公教育化について初検討、9月に葛飾区の協力を得られることになりましたがNPO法人でなく学校法人なら、という再提案がありました。それを了承したのが05年3月、6月のNPO総会で東京シューレ葛飾中の設立を正式決定しました。9月には、フリースクールの子どもたちによる子ども評議会が生まれ、毎月「どんな学校ならつくりたいか」を議論し、子どもが学校づくりに大きく関わりました。不登校の子どもの経験は、実に貴重です。学校でイヤな経験、学校で自分に合わない経験があったことを学校づくりに生かせば、歪んでいる学校、抑圧的な学校を居やすい学校、信頼できる学校にすることができ、安心して活用できます。これは、おもしろいことです。もちろんそれを選びたい子がくる学校であり、不登校も理解され、その子の気持ちペースが尊重される学校です。
 06年1月には、設立発起人会が発足、7月には葛飾区が正式に特区認定され、10月には東京都より学校法人設立と中学校設置が認められました。そして、東京シューレの親・子・スタッフ・市民協力者に寄附・図書寄贈・掃除・その他多くの準備に協力いただき、07年4月無事開校しました。
 法人の形は経緯上異なるのですが、シューレ中は、3周年を迎え、現在の子ども数108名、スタッフ常勤・非常勤20名、不登校の子どもたちによって創り続けられる学校となっていますが、王子シューレ・新宿シューレ・柏の葉シューレそして葛飾シューレとして4つの場が子・親・スタッフの交流をしあいながら、安心度の高い子ども中心の教育を展開して、シューレの仲間は増えているのです。
 これは、行政との連携でできたわけですが、この期、柏の葉が千葉県との協働で、県民プラザを無料で借り受け、週3日の開校、ホームシューレの在宅支援事業、フリースクールの居場所づくり事業に文科省の委託を受けるなど、行政との連携も進みました。行政を敵として考えていた時代から、どう子どもにとって意味のあることができる関係をつくり、理解をしてもらい、連携できるかの時代になっているのです。

(3)
 09年8月、20回を迎えた夏の全国合宿のエンディングで、大変素晴らしいものが採択されました。「不登校の子どもの権利宣言」です。ユニセフに「いろいろタイム」で見学に行き、帰り際職員から「君たちは飢えもない、戦争もない、学校も行ける、幸せなんだ」と言われ、違和感を感じたのがきっかけと言います。不登校で出会った苦しさは何なのか、子どもの権利条約は、僕らも救うものなのか、それから1年以上の毎週の講座で1条づつ読み議論し、原案をつくり、夏の全国子ども交流合宿の実行委員会に持ち込み、合宿の中でも討議、採択となりました。これは大変に評価が高く、全国の子どもの権利や不登校に関心のある人びとの中でネットや紙資料で広められ、集会でも取り上げられています。
 また、大人たちもこの期、子どもたちのずっと続く苦しみを変えたいと政提言に取り組み、07年には『教育多様性への提言』をシューレとしてまとめ、ほんとうに実現するためには、一団体では無理と、「フリースクール全国ネットワーク」に働きかけ、09年1月JDEC(日本フリースクール大会)では、「フリースクールからの政策提言」を提起しました。そして、2010年1月の第2回JDECでは、「オルタナティヴ教育法(仮称)」という新法と「すぐにでも実現させたい9つの提言」という2つの形で、子どもの権利の拡充としっかりした仕組みづくりに取り組んでいるところです。
 権利の具体化のひとつとして、高等部の通学定期適用実現や公的支援を議員に訴えている中で、08年5月「フリースクール環境整備推進議員連盟」が誕生、09年4月より、フリースクールに通う高校在籍者の出席認定と通学定期は実現する、という一部前進をみたものの、選挙と政権交代でストップ、要請し続けて本年6月1日議連が再始動そたところですが、議連にも、私たちの政権提言を持ち込んでいます。また、文科省の委託事業のお金で、「スリースクールQ&A」のパンフを作り、学校の教員にすでに1000部以上配布しました。
 このように、かつては考えられなかった国県区などと連携しつつ、多様な育ちの在り方を実現させようとしています。
 また、全国から無料でどこからも誰でも子どもたちの電話が受けられるチャイルドライン体制づくりに協力し、シューレも常設化するなど含め、さまざまなNPOと連携して、子どもの幸せのために活動し続けてきました。基本にあったのは、親の学びあい、つながりあいです。保護者会はもちろん、登校拒否を考える会は2009年に25周年に迎え、渡辺位さんに記念講演をいただきましたが、残念ながら、長い間シューレを支えてくださった渡辺位さんは、09年5月永眠されました。渡辺位さんをアドバイザーに20年続いた親ゼミですが、渡辺位さん亡き後も、学んだことを生かし、考えあっていきたいと、現在も続いております。シューレは「登校拒否を考える全国ネットワーク」の活動を支えてきましたが、08年2月にそれもNPO化し、フリネットや不登校新聞社など不登校やフリースクールに関する市民活動と連携しながら、交流し、社会に理解を深めつつ子どもの状況を変えようと活動をしている日々です。

◎四半世紀を振り返って

 四半世紀を振り返って、思うのは「不登校」への感謝です。自分もはじめは否定的に見え、社会も否定している「不登校」から、新しいつながりと日本社会にとても新しいものを創り出してきました。そのつながる力・創る力を生み出したものは、ダメに見えた「不登校」であり不登校を通して私たちはより深くものを見て、新しい文化や生き方を創り出すことになりました。そして、表面的ではなく、幸せとは何かを考えるようになりました。暗闇と思ったものの中に光がありました。その学んだことを大切に、これからのシューレを皆さんで創っていきましょう。また、これまでつながったり支え手くださった子ども、若者、保護者の皆さん、スタッフ、こうし、ボランティアの皆さん、識者やフリースクール、親の会の仲間、海外の皆さん、私の友人、家族、その他多くの皆さんに、心よりお礼申し上げます。
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